袖師窯
袖師窯とは
袖師焼は明治10年の開窯。初代は尾野友市氏。場所は松江市上
乃木の皇子坂。
二代岩次郎氏は、明治26年に宍道湖岸の袖師浦、現在地に窯を
移しました。彼は京都、瀬戸、有田など他の窯業地を訪ねて研究。
布志名焼と趣を異にした陶器を作ります。後に袖師焼と改めたま
した。
三代の敏郎氏は、柳宗悦、河井寛次郎、バーナード・リーチの指
導を受け民芸の窯として知られるようにります。昭和33年のブリュ
ッセル万国博覧会に出品した酒器が、グランプリを受賞しています。
出雲の技法と地元の土や原料を使い、日用品としての焼物を作っ
ています。
乃木の皇子坂。
二代岩次郎氏は、明治26年に宍道湖岸の袖師浦、現在地に窯を
移しました。彼は京都、瀬戸、有田など他の窯業地を訪ねて研究。
布志名焼と趣を異にした陶器を作ります。後に袖師焼と改めたま
した。
三代の敏郎氏は、柳宗悦、河井寛次郎、バーナード・リーチの指
導を受け民芸の窯として知られるようにります。昭和33年のブリュ
ッセル万国博覧会に出品した酒器が、グランプリを受賞しています。
出雲の技法と地元の土や原料を使い、日用品としての焼物を作っ
ています。
窯元紹介
お聞きしますと、以前は船の行き来する宍道湖畔の景勝地だったそうです。
埋め立てが進み現在のようになりました。古い写真を拝見すると、湖岸を
明治42年に開通した山陰本線がモクモク走っています。
開窯の皇子坂から北西に2キロ程。当時絵葉書にも多く描かれたそうです。
さぞや夕日の美しい海岸だったのでしょう。
そんな自然も、袖師窯のデザインの礎だったのかもしれません。
埋め立てが進み現在のようになりました。古い写真を拝見すると、湖岸を
明治42年に開通した山陰本線がモクモク走っています。
開窯の皇子坂から北西に2キロ程。当時絵葉書にも多く描かれたそうです。
さぞや夕日の美しい海岸だったのでしょう。
そんな自然も、袖師窯のデザインの礎だったのかもしれません。
袖師窯
まず石碑と築100年以上の建屋。なんだか幽玄な雰囲気に驚かされます。
独特の空気感がそこかしこに。そして2階の展示場には、器の数々が。
特筆するのは、そのセンスの研ぎ澄まされていることです。決して尖った
ものではありません。何故だか分らないのですが、袖師窯さんの作品を見
ているとホットします。
作品は人を映すって言いますから、代々続いたものなのでしょう。
5代目の尾野友彦さんの下、宍道湖の穏やかな波のように続けられること
でしょう。
独特の空気感がそこかしこに。そして2階の展示場には、器の数々が。
特筆するのは、そのセンスの研ぎ澄まされていることです。決して尖った
ものではありません。何故だか分らないのですが、袖師窯さんの作品を見
ているとホットします。
作品は人を映すって言いますから、代々続いたものなのでしょう。
5代目の尾野友彦さんの下、宍道湖の穏やかな波のように続けられること
でしょう。